アンディの修行時代
たまたま流れきたTweetのなかで、2006年の秋にインタビューを受けたアンディの記事を発見しました。
今、わたしはパン関係の英文を読むのにどっぷりハマっていて、めちゃめちゃ知ってるヒトだし、英語がちょっとわからなくてもきっとピンとくるところがふつうより多いはずだっ!と思って読みながら訳しはじめました。
そしたらめちゃめちゃ面白かったヾ(*・∀・*)ノ゙
ってゆーか今までぜんぜんそんなハナシしてくれへんかったやんっ!!ってゆうオドロキのエピソードの連続で、
ジットさん、ブラッドリー、リンカーンのおやじ(笑)、ブルーダイアモンズ、レネゲイヅ、TTIL(現在のパンランド)の会社とか建物の周辺とか…、ほんとによく知ってるヒトたちや知ってる場所で、アンディがその青春(笑)を、職人になるために捧げてきたんだなーってゆうのがよくわかるんです。
2006年のインタビューで、5年後にどうなってると思いますか?って聞かれたアンディが「チューニングスクールを開きたい」って答えていて、
じつは今年またアンディを日本に招待する予定があって、そのときに神戸でチューニングスクールを開こうと計画中だったのでとてもオドロキました。
それ以外にもインタビュー中にある、アンディの自分の目標を決めたらそこに自分の運命を委ねて切り拓いてゆくチカラにマジックさえ(笑)感じます。
細かいニュアンスがわたしの英語力では訳しきれないところがあるし、
秋の来日時にはアンディ自身にレネゲイヅ時代やチューナー修行時代のエピソードを語ってもらうトークショウ(笑)も予定していて、
ぜんぶ紹介しちゃうと完全にネタバレしちゃうので、
要約だけご紹介したいなと思います( ´ ▽ ` )
前文は↓で読めます!
http://www.panonthenet.com/articles/tnt/neils_tuner.htm
そして↑の動画はアンディが参加していたとゆうリンカーンエンタープライズのパンラマジェイバンドです。この中にアンディいるのかなぁ・・・
【インタビュー要約】
インタビュー冒頭は、高校生のアンディがスクールパノラマやスモールバンドに参加していたエピソードが紹介されています。パノラマの直前に、テナーでぜんぶ曲を覚えきってしまったのに、メンバーが足りないからってゆう理由でダブルテナーに転向して1週間で曲を覚えてしまったそうです。
その後、レネゲイヅにプレイヤーとして在籍。伝説のアレンジャーであるジットサマルーが、若きアンディのスピードと技に関心してマッドマックスとゆうニックネームをつけたそうです。ジットさんに命名してもらえたなんて、光栄ですね!
若かりしアンディはプレイヤーとして才能がありましたが、まわりを見回してもスティールパンで生計を立てられているのはアレンジャーとチューナーだけでした。スティールパンを職業にしたかったアンディは、チューナーになると、その時に決めたそうです。
その後、ベルモントセカンダリースクールでスティールパン全般に渡る技術を教える1年間のカリキュラムがあり、そこでチューニングとアレンジも学び、そのとき音楽理論を教えていたクライヴブラッドリーに影響を受けたそうです。
そこで学んだことを活かして、その頃からシングルパンバンドのアレンジャーとしていくつものバンドで活躍していたそうです。
それと同時に、その1年間のカリキュラムの一貫としてTTILにも見習いとして働くようになりましたが、最初はまったくチューニングはできなかったそうです。
チューナーとしてはなかなか才能が開花しなかったアンディは、TTILからお土産用のミニパンを作る仕事を任されました。その仕事を責任を持ってこなすかたわら、お昼休みや空いた時間でチューニングの練習をしたそうです。
そんな時に出会ったのが、チューナーのリンカーンノエルです。アンディはリンカーンの助手になり調律の技術だけでなく精神性に至るまで多くを学ぶことになります。
そしてリンカーンといっしょに、中音域のスティールパンをたくさん製作しました。
やがてアンディ自身のチカラで中音域のスティールパンを調律できるようになっていたのですが、会社からテナーやベースはアンディには作れないと言われて仕事をさせてもらえなかったそうです。
そうこうしているうちに、先輩チューナーがたまたまうろうろしてるアンディに声をかけて、先輩チューナーの仕事を、やりたかったらやってみていいぞ・・・と、言ってくれたそうです。
その時にはもう、こっそり練習をしていたので、かなり立派にテナーの調律もできるようになっていました。そしてそれが高く評価されるようになったのです。
リンカーンにデスペラードスのギターパン担当チューナーとして選ばれ、その後、ディフェンスフォースとのマレーシアツアーに調律師として同行したり、目覚しく才能を発揮することとなります。
そこまで来るのに10年の月日がたっていたそうです。
このインタビューを受けた2006年当時は、その年のニューヨークパノラマで優勝したバンド"CASYM"からバンドまるごと100台分全パートの楽器の注文が来ていて、テナーを納品し終えたばかりだとのことです。
それ以外にも、インベーダーズやエクソダス、デスペラードスなどなど、アンディが担当したバンドはどれも好成績をあげ、チューナーとしてアンディもとても重宝されるようになりました。
彼を育てたリンカーンノエルは、このインタビューを受けた2006年に亡くなりました。
アンディだけでなく、リンカーンさんの包容力で才能を開花させた多くのチューナーがいたことに、あらわしきれないほどの賞賛と感謝を送っています。